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巨福呂坂切通し(こぶくろざかきりどおし)鎌倉七口の一つ [ぶらり鎌倉]

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 鶴岡八幡宮から建長寺へ通じる山道で1240年、北条泰時が自身の所領地である山ノ内への便を目的に開いたもので、鎌倉と武蔵を結ぶ要路で、新田義貞の鎌倉攻めでは大激戦が展開されました。明治初期1898年に新道を拓いた折りに巨福呂洞門の上にあった切通し部分は失われています。

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 旧道の巨福呂坂はこの新道よりさらに上の場所に位置しており、八幡宮の裏から住宅街の小道を進み、青梅聖天の横を通って登っていく道で、青梅聖天の下には庚申塔や道祖神、供養塔群があり、その先は行きどまりとなっています。

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 青梅聖天(おうめせいてんしゃ)の名前の由来は、三代将軍実朝が激しい病にかかったとき、仕えの者が時期はずれの青梅を探しまわり、ようやくここで見つけ、これを献ずるとたちまち病が癒えたそうです。

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画像はフォトムービーでもお楽しみください・・・・


神奈川県鎌倉市雪ノ下
JR横須賀線、鎌倉駅

■■ 鎌倉七口 ■■
 鎌倉は三方を山に囲まれ、防御上非常に有利な地形をしていましたが、人や物資の行き来には不便であったため、山の稜線を切り開いて道を作りました。鎌倉とその外を結ぶ切通のうち主なものを「鎌倉七切通し」または「鎌倉七口(かまくらななくち)」と呼びます。また、鎌倉市内にある切通には「鎌倉七切通し」に数えられていないものもあるそうです。
■亀ヶ谷坂切通し(亀も引き返す急坂といわれるが・・・)
別名が亀返坂、亀も引き返したというほどの急坂だったようですが、今は歩きやすい緩やかな坂です。仁治元年1240年に北条泰時が造ったとされていますが、本当のところは不明で、鎌倉後期1300年代前期にはここに道があったことは確かなようです。道は舗装されていますが車は通行止めなので歩くにはいいところです。
■大仏切通し(切り通し本来の醍醐味を味わえます)
鎌倉から藤沢方面に抜ける切通しで、明治12年(1879年)に9mほど道を掘り下げて人力車を通したという話が有るそうです。
■化粧坂切通し(七口一番の急勾配の坂がある)
仮粧坂とも書く切通しで、鎌倉幕府滅亡前1331年の元弘の乱でとらえられ、首を切られた日野俊基の墓が近くにあります。この化粧坂はどうも鎌倉の内と外の境界だったらしく切通しには岩壁はありませんが、道には岩が露出していて勾配は七口でも一番急なようです。
■朝夷奈切通し(切通しの雰囲気がよく残る古道)
頼朝時代、朝夷奈三郎義秀が一夜で切通しを開削したことからこの名がついたようです。七口でも道の長さ、景観とも素晴らしいく、この道は1956年に県道が開通するまでは現役の道だったそうです。
■名越切通し(防御機能がよく考えられた切通し)
名越切通しは、鎌倉から三浦へ通じていた要路で、横須賀線が開通する明治22年(1889年)までは幹線道路として利用されていました。道の途中には防御のためか大きな置き石と呼ばれる岩が置かれ、七口の中でも一番防御を念頭に置いた切通しのように思われます。
■極楽寺坂切通し(切通しの雰囲気は感じられない)
極楽寺から由比ガ浜へ抜ける切通しで、七口の中でも切通しの雰囲気が一番薄く、巨福呂坂切通しと同様、現在は車道のために元の道をかなり掘り下げています。
■巨福呂坂切通し(切通しを掘り下げて車道になった)
現在は巨福呂坂洞門となった切通しで、車道として残っています。また、鶴岡八幡宮から切り通し方面に向かい、途中から左に折れて行くと民家に突き当たりますが、そこが元々のルートで、ちょうど洞門の上部近くまで行けるようです。

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